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献体推進議員連盟設立について

参議院議員 高木健太郎

 

昭和58年5月18日の参議院本会議で「献体に関する法律」が全会一致で通過した。明治2年8月14日、34歳の女性ミキの篤志解剖がなされてから114年目にあたる。篤志解剖および刑死体、引取人のないものの解剖が許可されたのは明治3年10月20日である。このように「人体の解剖が初めて制度の上で認められたのは、日本の医学史では画期的なことであった」と小川鼎三は言っている。その後の経緯ははっきりわからないが、法律として大学における解剖が認められたのは昭和24年6月10日に制定された「死体解剖保存法」による。
それ以後、今日まで自らの死体解剖の意志の表明の有無に関係なく、この法律によって執行されていた。今回の献体法の特色は何といっても、生前の遺志を法律によって認定したというところにある。しかもミキの場合の政府の許可書には、解剖後は「厚ク相弔イ遺ルベキコト」という条件がついており、医学校は盛んな葬送をし、ミキの家には十両の大金があたえられているが、今回の献体法はあくまで本人の医学教育のために貢献するという文字通り献身的な行為を国家が認めており、それに対する慈悲、燐憫を求めていない。物質文明、物・第一主義の現代への抵抗という感すらも覚え、その意味で画期的なものである。
この献体法成立の経過で、議員の中には、自らこの法律制定に参画しながら、自分は献体をしないということにこだわりを持たれた極めて良心的な議員が何人かおられた。内心忸怩とまではいかないまでも、何だか後めたさを感ぜられた人々があった。それは決して献体に応じないというものではなく、永い習慣の中で踏切がつかぬという躊躇感であったろう。だが、少くとも、この献体の精神には賛成の方々であった。いよいよ献体法が成立といったときに、この気持は期せずして、われわれも卒先して献体しよう、献体はできなくとも、少くとも、献体の趣旨を多くの人に伝える運動に加わり、民間篤志団体の活動を側面的に支援しようではないかとの話が議員の間に持ち上って来た。
初め前川旦議員より私に話かけがあり、まず現在、すでに献体登録をしている議員を調べよう、その人たちを中心として議員連盟を作ろうということになった。結果は5名ということがわかった。この5名が発起人となり、趣旨書を作り、衆参両議員のすべての方々に参加を呼びかけた。
趣意書には「献体は“最后のボランティア”と呼ばれ、欧米先進国では極く日常の行為として受けとめられています。……私達国会議員は国民に対する奉仕者として有権者から支持を受けて参りましたが、願わくば生涯を奉仕者として貫き通したいものであります。その一つの方法としてこの献体登録を考えるものであります。以上から国会議員みづから国民に対して献体に関する深い理解が得られるよう努力し、献体運動が一層推進され、広く国民の間に普及されていくことを願っております。……」
最初国会議員の中で会員は登録したものだけに限るようにすべきだという意見も強かったが、本人が承知していても、家族その他の人々からの反対で登録できない人もあることを考え、登録意志はあっても、まだ未登録の人も準会員として入れるということにきまった。名称も献体連盟とせず「献体推進連盟」とした。
9月28日(水)衆院第二議員会館において設立総会をひらいたところ、日本解剖学会の先生方、篤志解剖全国連合会の方々が全国からお祝いに参加して頂き、規約制定、役員選出、会費などを決定、閉会後、参会者有志のご厚意により、議員との懇談会を持った。
その後、ぞくぞくと入会者が増し、現在では正会員、衆院で5名、参院で4名、準会員は衆院で4名、参院で13名、合計26名となった。現在は30名を超えていると思われる。
無条件、無報酬で献体という行為は日本の国情ではなかなか容易なことではない。国会議員が票にも連がらぬこの行為に踏み切ったということは、“倫理”が喧しく叫ばれる折柄、ささやかではあるが、医療の荒廃の恢復にとっても、また政治不信からの脱却にとっても、確実な一歩となることを信じている。

 

 

 

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